2025年12月05日

安部首相殺害裁判で感じること(敬称略)

 山上被告の発言を聞いていると、この家族の根本的な問題点が浮かび上がってくる。自分の生活を破壊したのは母親ではないのか。それなら、一番に復習の矛先は母親に向かうべきだろう。統一教会の韓鶴子は法で裁かれるべきだろう。しかし、大半の家庭が統一教会によって崩壊させられたわけでもない。安倍晋三が統一教会に好意的であっても、それは選挙民が判断すべき問題だろう。山上は自分の生活が破壊されたのだと思うなら、母親を殺害すればいいことだ。
 この家族は互いに、憎しみをすべて外に向け他人が自分を不幸にしたのだという被害者意識しか持ち合わせない、非常に身勝手な家族だという印象しか受けない。
 この裁判、現行犯で捕まっているのだからさっさと結審すればよい。私は殺人はどんな場合も死刑だと考えているので裁判官には極刑の判断を希望する。責任を他に転嫁する発言ばかりで情状酌量の余地はみじんにも感じない。
 そもそも、世界中の既存の宗教に頼る人間は何を根拠に宗教にのめり込むのか理解できない。神は少なくとも万能の神なのだろう。その神がお供え物を要求したり、金品を要求するはずがない。それらはすべて宗教活動に携わる人間の目的であって、本来神より罰を受ける対象である。それを平気でやっているということは、彼ら自身が一番神の存在を信じていないからである。何をしても神が罰することなどないと高をくくっているからである。
 私事だが、私は今年の4月〇〇寺の檀家をやめた。〇〇神社の氏子もやめた。だからといって無神論者ではない。この人間の知恵ではとうてい到達できない宇宙を作り上げたのは神だと感じていて、その神に対しては崇高さを感じている。その神が人間の手を借りて何かをしようなどと、それは人間の思い上がりというもので、神を利用した一種のビジネスだと思った方がいい。それに信心をいくらつぎ込んでも本当の神は助けてくれない。
posted by 司馬懿太郎 at 12:47| 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする